ランドスケープおよびランドスケープ外的思考
2009-01-04T17:51:13+09:00
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書かれなかった風景のための序論
Excite Blog
シビックプライド
http://rystail.exblog.jp/9154409/
2009-01-01T17:36:00+09:00
2009-01-04T17:51:13+09:00
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rystail
BOOKScape
新年明けましておめでとうございます。
昨年の暮れに、長年お世話になっている「シビックプライド研究会」から本が出ました。
政治で経済で文化で、そして何より日常生活で、「シビックプライド」は豊かな都市を、実りある人生を育んでいく原動力です!
今年もよろしくお願いいたします。]]>
お花見という好日
http://rystail.exblog.jp/7587676/
2008-03-28T23:16:00+09:00
2008-04-06T09:37:24+09:00
2008-03-28T23:16:27+09:00
rystail
LANDSCAPE
桜にはたくさんの種類があるが、ソメイヨシノが開花するこの2週間、日本はほんとに特別な国になる。後輩が言っていた「桜の開花がニュースになる国って、すてきじゃないですか」というJR東海のキャッチフレーズのとおり、こんなにもすべての人々の関心を集め、幸せな気分をもたらすことのできる文化は、他にはなかなか思い当たらない。
造園の仕事の最大の成果は今もなお「お花見」をプロデュースすることにあるのではないかと思ってしまう。街に桜を植えることで、人々に幸福な生活を贈ることができる。
「お花見」に匹敵する新しいパブリックライフの創造ににチャレンジしていきたい。
毎日のニュースでとりあげられるような、屋外で人々が楽しく過ごせるためのきっかけを提案してみたい。
それはおそらく、シンプルで誰もが共有できる、なんていうことのない口実に過ぎないのだろうと思う。いつだって、晴れた昼下がりに、屋外で過ごすのは気持ちのいいものだ。多くの人々と何かを共有できている感覚も都市生活の魅力の大きなひとつである。
それを許容し助長するような、「文化」としての風景が共有されれば、僕たちの生活により豊かな時間が増えるに違いない。
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誰のための都市か
http://rystail.exblog.jp/6693619/
2007-12-07T00:31:00+09:00
2007-12-07T22:10:37+09:00
2007-12-07T00:31:40+09:00
rystail
LANDSCAPE
「都市は人間が幸せな生活を送るためにつくったもののはず。どうして都市問題などが起こりうるのか。都市は解決のための存在だ。」ジャイメ・レルネルさんから受け継いだこのような考え方は、本当に正論で、またこれが、本当に実践されているので、説得力がある。
最初にクリチバを知ったときには、途上国の地方都市だからと思っていたが、今は違う。都市の専門家たちの強い思いがクリチバを今のような都市にしたのである。
目下のお仕事はブラジリアの都市再生とのこと。レルネル事務所の叡智をもってすれば、かのブラジリアも人間都市に生まれ変わることだと確信している。
「市民と一緒に、分かりやすく、シンプルに、すぐに対応することが大切」
都市に関わる人間として尊敬できる大切な大先輩の一人である。
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風景探訪
http://rystail.exblog.jp/6475721/
2007-10-28T23:42:00+09:00
2007-10-30T22:14:52+09:00
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rystail
LANDSCAPE
夜「情熱大陸」は、環境運動家 辻信一。まずは、自分が本当にいいと思うことから、なんでもナマケる。そんな姿勢が100万人のキャンドルナイトにまでつながっていく。
どちらも、自分のスタイルを毎日の生活の中で貫いて、それがプロフェッショナルになっている。果たしてどちらが優れているかという話ではないとは思うが、やっぱり「建物」に閉じこもっていては、その影響度合いが少なそう。100人が通う幼稚園を設計しても、1万人が入る競技場を設計しても、やっぱり100万人で同時に何かを共有するレベルまではなかなか行かないのではないか。
おなじ何かを設計するのなら、もっと都市へ出て、もっとたくさんの人に触れる場所をつくる方が波及効果は大きいはず。そうしたいけどできない、ということではきっとないと思う。曽我部さんがやっているのも辻さんがやっているのもどちらも、その人のスタイルの問題だから。
住宅を超えて、多くの人が共有する街並みや都市を紹介して、「いやいや、いいですねえ~」と渡辺さんがウンチクを述べて、自分もこういう街に住んでみたいなとか、こういう都市をつくるのに参加してみたいなと思えるような番組もあっていいんじゃないでしょうか。もう、みんな住宅は分かって来ているような気がする。
その街が、どういう思いでつくられたとか、どういう工夫があるとか、住んでいる(計画や設計のプロでない)人が誇らしげに、かつやや恥ずかしげに案内するとか、渡辺さんが都市を語るためのボキャブラリーを豊富に持つようになるとかすれば、きっと、アド街や旅番組みたいにはならないと思うけどなあ。]]>
ベンチが呼んでいる(公園礼讃②)
http://rystail.exblog.jp/5977173/
2007-08-15T23:39:07+09:00
2007-08-15T23:39:07+09:00
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LANDSCAPE
誰も座っていないけれど、座ってみたくなる。座ったときの居心地の良さを、座らずとも感じることができる。
木陰で一人の時間をそれなりに楽しんでいるようでもあるし、誰かに話しかけて欲しそうでもある。
いずれにしても、ベンチの存在が風景の質感を高めていることに違いはない。ベンチがそこにあることで、自分がそこに座っている風景が思い描かれる。自分がそこに座って、そこからみえるであろう風景が思い浮かばれる。
ベンチにはすでにたくさんの人が座っている。僕もその一人になりたいと思う。風景の一部になりたいと思う。ベンチに腰掛けて、都市の風景になり、都市の風景を眺める時間を持ちたいと。
ベンチが風景を呼んでいる。
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公園礼讃
http://rystail.exblog.jp/5946588/
2007-08-10T00:16:00+09:00
2007-08-15T23:20:04+09:00
2007-08-10T00:16:29+09:00
rystail
LANDSCAPE
一般の雑誌でこういう特集が組まれると、公園関係者としては、うれしいと同時になんだか口惜しい思いにさいなまれる。表紙の写真はまだしも、取り上げられる公園の多くは、建築家やアーティストによるデザインコンシャスなものがほとんど。一般の人々に(雑誌を売るために)公園の良さを分かってもらうための言語があまりにも貧相なのだと思い知らされる。
白幡洋三郎の「公園なんてもういらない」(1991年)以降、公園に携わる者が公園の良さを伝達することにあまりにも臆病になってしまって来たのではないだろうか。公園はその名の通り、公共のためのオープンスペースとして、日々の生活に根づき、よく利用され、日常の風景になくてはならない存在になっている。はずである。
そこで、あらたまって公園礼讃。
公園はこんなにも、平凡ですばらしい風景を見せている。
例えば芝生広場。
何もない広大な空地はビルの建詰まる都市において、開放感を感じさせる。子供でなくとも走り出したくなるし、都市が大地の上に成り立っていることを知ることができる。
フラットな緑のカーペットも良いが、多少の起伏があった方がより空間を感じることができる。
10mに及ぶような起伏は丘となり、開放感とはまた違った風景を演出する。空との連続性よりはむしろ、周辺環境との差異が際立つ。自分の立つ地面の意味を再確認できる。
「広大な」芝生広場を感じるには、周辺が住宅地で囲まれた立地において1haのまとまりは欲しい。これが臨海部の工業地域など、もう少し土地利用の粗いエリアでは、1haでは少し狭い。周辺の敷地のロットにあわせて、広大さの演出も異なる。
樹木の植え方も大切な演出である。昭和記念公園の大ケヤキはあの空間スケールならでは心象に響く演出である。
一方、狭小敷地の芝生広場はなかなか難しい。街区公園では、児童公園の歴史性もあって、滑り台、鉄棒、砂場が所狭しと並べられ、敷地が芝生のスクエアとなっていることは皆無である。しかし、各務ヶ原市の街区公園は、これまでの街区公園のイメージを一新している。四方に柵はなく、周辺住民の管理により、全面に芝生のきれいな緑が保たれている。皆が共用で使う場所としてのコモングリーンの正当なイメージを創出している好例と言える。
芝生広場が「芝」である必要は毛頭ない。たいていの場合は、同じイネ科のメヒシバやスズメノカタビラ、広葉系のシロツメクサなどの種が混在しているが、一向に構わない。カタバミやネジバナなどは、むしろ趣を添える。しかし、高茎種は具合が悪い。セイタカアワダチソウは言うに及ばず、ハルジオンやオオアレチノギクも河原ならともかく、広場では何とかしたい。公園の芝生広場がセイタカアワダチソウで覆われているのを見たことがあるだろうか。高温多湿の日本の気候条件下で、公園の芝生は、実はたいへん高度に管理されているのではないかと思う。
芝生広場にベンチは不要である。レジャーシートを広げるか、できればそのまま寝転びたい。草と湿った土の匂いをなつかしいと感じるのは、大人になったことよりはむしろ、都市生活の弊害を示唆している。今では、都市生活において「あの」原初的感覚を味わえるのは、公園くらいである。
このような空間が担保されていることは、都市的土地利用の冥利である。農村地域にこのような風景はない。芝生広場は決して自然の風景ではない。高度に人間の手の及んだ、建物とは違う形での高度な土地利用の結果である。多大なる資金がつぎ込まれ、土地を確保し、永続的に毎年数回ものメンテナンスが行われ続けている。このような空間を個人で持つことはほぼ不可能である。
何もない空間であることは、利用の許容度も高い。利用する側のイマジネーション如何によっては、何にでも使い得る。代々木公園は、いつ行っても多様な空間の使い方が見られる。とある休日の昼下がりには、時代劇風の演劇の練習、見たこともない楽器の演奏、ジャグリングの練習、愛犬家コミュニティのミーティング、100人規模での大ウォーキング教室、大学の新人歓迎コンパ、などが同時に取り行われていた。老若男女、こんなに多くの人々が集い、多様な利用を同時に見たせる空間は、公園くらいのものである。もちろん、このような空間性は災害時にもその効果を最大に発揮する。
ゴルフ場の芝の美しさと芝生広場を比べてはいけない。芝生広場に修景は不要である。フェアウェイとラフが刈り分けられた芝生広場は使い勝手が悪い。ましてやグリーンのような仕上がりはかえって緊張感を強いる。
などなど、当たり前かもしれないが、書き出したら芝生広場でも意外と書ける(書くべき)内容はあるように思う。
こんなことって、どこかに書いてあるだろうか。もっと公園を褒めたっていいと思う。
公園礼讃。
他にもまだまだ、思わず座ってみたくなるベンチについてや、樹木の空間の美しさなどなど、取り上げるべき視点はたくさんありそうである。
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進士邸
http://rystail.exblog.jp/5928629/
2007-07-29T21:51:00+09:00
2007-08-12T20:53:40+09:00
2007-08-06T22:10:31+09:00
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LANDSCAPE
もちろん講演会などでお見受けすることはあったが、ゆっくりお話をお伺いするのは、はじめて。
農大の卒業生ばかりの中に混じって、余計な者がお邪魔したにも関わらず、いろいろと興味深いお話をたくさんして頂きました。
いろいろとお伺いするにつけ、すっかり進士節にはまってしまい、これほど「ランドスケープ・アーキテクチャ」に真摯に取組んでいる人は居られないなと陶酔してしまいました。
お休みにも関わらず、ご家族の方々にも美味しい料理とお酒をご馳走になり、大変感謝です。
まあ、当たり前だけど、本当に良くご存知。
物事の思考過程が明快で、それをアウトプットする道筋も上手。
久保先生の話も飛び出したり、めったにお聞きできないような内容の話もたくさんして下さいました。
ソーシャル・プランナーとして、トータル・ランドスケープを捉えるその姿勢からは、改めてこの分野の魅力と可能性を再確認させて頂くことができ、たいへん勇気付けられました。
先人の足跡はかなり偉大ですが、この道を歩み続けようと決意を新たにした日曜の昼下がりでした。
以下、お話の概要メモ。
・言葉の持つ意味の強度
・歴史とは社会の構造を捉えること
・ランドスケープの持つ社会性
・「アメニティ・デザイン」に込められた心
・体制と反体制の系譜
・法的根拠の意義
・造園の科学-技術-芸術の三本柱
・原論の持つ意味
・分野を超える態度
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鶴牧東丘
http://rystail.exblog.jp/4675286/
2007-02-03T10:46:00+09:00
2007-02-10T19:18:31+09:00
2007-02-04T10:50:22+09:00
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LANDSCAPE
駒沢公園が完全な広場だとしたら、この鶴牧東公園は完全な丘である。
公園は平坦なスクエアである必要はない。
空へつながる坂道を登り、屋根より高いベンチに腰掛ける。
こんな公園が家の近くにあったら、毎日のように通ってしまう。
人生のシーンが変わるだろう。
パブリックスペースの意味とはそういうものだ。
人生を豊かにする公園が確かに存在する。
ここでも、植田正治が撮れてしまう。
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世界のロッカーにコインが残されている理由について
http://rystail.exblog.jp/4669786/
2007-02-01T10:06:00+09:00
2007-02-03T10:07:06+09:00
2007-02-03T10:07:06+09:00
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landscape
(といっても、ひどく落込むほどの出来事でもない。)
美術館のコインロッカーに荷物を預けようとしたら、カギの下の返却口に100円が残されたままだった。
“ラッキー”
別に飛び跳ねて喜ぶほど、うれしくはないけれど、なんだか得をした気分になる。
わざわざ財布を取り出すことなく、荷物をロッカーへ入れカギを回す。
ここまでは、まあ、よく(はないかもしれないけれど、たまには)ある話で、別に失敗談ではない。
問題は、荷物を取りにロッカーへ戻ってきてからである。
カギを開けるとコインが戻ってくる。
僕は当たり前のように、(わざわざ財布を取り出し)100円を取る。
ここで、もう一度“ラッキー”と思ったりはしない。
だって、このロッカーはコインが戻ってくるものだということは、はじめから(そこにコインがあったのだから、特によく)分かっている。
そこで、僕は、そのコインをうっかり自分の財布なんかに入れるべきではなかったのだ。
コインをそのままにし、次にそのロッカーを使う人が“ラッキー”と思えるように、そっとその場を立ち去るべきだったのである。
財布に100円が一枚増えようが増えまいが、僕の感じた“ラッキー”の感覚が、後からちびるわけではない。むしろ、見知らぬ誰かが“ラッキー”と思うであろうことを想像しながら、その後を過ごすことの方が、よっぽど心地よいものだっただろう。(そもそもにおいて、僕はまったく損をしているわけではないのであるし。)
幸福の連鎖とはきっとそういうものなのだ。僕は作法をわきまえていなかった。せっかく誰かのつくった(それが単純なうっかりであったとしても)きっかけを僕が堰き止めてしまうべきではなかったのだ。
今さら気づいたことは、でもたぶん、気づかなかったことよりはましだ。
今度はわざと100円を取り忘れてみるのもいい。もしかしたら、こうして意図的に取り忘れられたコインが世界にはかなり存在しているのかもしれない。
どこかで誰かが誰かを幸せにしている。
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黒川紀章の「新」六法全書
http://rystail.exblog.jp/4669781/
2007-01-28T10:01:00+09:00
2007-02-03T10:06:02+09:00
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rystail
LANDSCAPE
「読み手が多様な受け取り方ができるようなものがいいんです。皆さん、いちばん多様な受け取り方ができない読み物を知っていますか?・・・それは、六法全書です。(会場笑)」
まるで、みかんぐみの曽我部さんなんかが言いそうな、なんとも今風の発言で少し違和感を覚えたが、僕もまさにおっしゃる通りだと思う。もはや黒川さんの若かりし頃のような、スター建築家が一般の人々に建築や生活のあり方を与える時代ではない。
「新」国立美術館を上空から見た写真がある。
これが、「新」国立美術館の全てを表している。
そりゃあ、こんなにうねうねしたガラスの壁面も、至極きちんと積み重ねられたいくつもの白い箱も、それらのあいだの地面に突き刺さったでっかいコンクリートの円錐も、日常風景のなかでそうお目にかかれる代物ではない。しかし、そこでの空間体験は箱の中で美術に集中「させられ」て、出てきて休憩「させられ」るという感じである。
確かに大きな白い箱は展示には最適な空間だろうし、ゆっくりくつろぐにはやさしい局面に包まれたアトリウムはすばらしく居心地がいいだろう。でも、そもそも、そういう風に美術を鑑賞するというのが、学校や会議場のようなスタイルで、まったくもって、たいくつではないか。むしろ、展示スペースとフリースペースが逆転していて、アトリウムで美術の展示を見ながらゆっくりくつろげたり、ホワイトキューブのカフェでコーヒーを飲みながら集中できたりする美術館の方が「新」だったんじゃないだろうか。
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駒沢オリンピック広場
http://rystail.exblog.jp/4669766/
2007-01-27T10:00:00+09:00
2007-02-04T10:51:46+09:00
2007-02-03T10:01:40+09:00
rystail
LANDSCAPE
日本には広場がないとよく言われるけれど、これは完全な広場だ。
「オリンピック公園」という名前につられて、みんなスポーツをしているのが、面白い。
確かに、本を読むような場所ではない。広場とはそういうものだろう。
開かれていなかればならない。
記念塔もまさにシンボルとは何かを示している。
これがないと、単なるヴォイドが抜けるだけで広場にならない。
正面の塔、左右に体育館と競技場という構成も広場として正しい。
この広場を、どう使うかは、今われわれにゆだねられている。
そこには、専門家による少しの補助線が必要かもしれない。
芦原義信とは違った解釈を持ちえるだろうか。
不自由さを与えてはいけない。
都市に、こんなパブリックスペースがもっとあるといい。
まわりは住宅街だが、都心にあるとまた違うだろう。
特に、大階段の舞台構成はすばらしい。
誰でも簡単に植田正治が撮れてしまう。
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センチメンタル・ジャーニー
http://rystail.exblog.jp/4631147/
2007-01-27T09:31:00+09:00
2007-02-10T19:20:08+09:00
2007-01-27T09:22:30+09:00
rystail
landscape
『センチメンタル・ジャーニー』
松田聖子の歌以外を思い浮かべるなら、すごく素敵なテーマかもしれない。
というわけで、冬なので現代詩、行ってみます。あしからず。
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真夜中の帰り道で、でっかいカボスを蹴っ飛ばした。
僕はカボスを蹴っ飛ばそうと思って蹴っ飛ばしたわけではない。
街灯の明かりを受けて、ほんのりと黄色く光りながら、ころころ転がるその丸い物体が、カボスだと気づくのにはしばらく時間がかかった。
もしも、カボスが頭の上に落っこちてきていたら、それは不愉快だったかもしれない。
けれど、足元に落ちていたカボスを不意に蹴っ飛ばすのはまったく不愉快ではない。
カボスは、おそらくあなたが想像するよりもずっと長い間、まっすぐに歩道のうえを転がりつづけた。
僕はカボスを追いかけるでもなかったのだけれど、帰る足の方向にカボスが転がるものだから、しばらくカボスの後を追いかけるように歩いた。
もう一度、カボスに追いつく。
妻と息子の眠る家は、もうすぐそこだ。]]>
「ユルバニスムをめぐって」をめぐって
http://rystail.exblog.jp/4547725/
2007-01-12T08:49:00+09:00
2007-01-12T19:44:12+09:00
2007-01-12T08:54:50+09:00
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僕がパリでお会いしたときは、まだユルバニスム研究所への移籍前だったと記憶しているが、そのころから話題は、「都市」に傾倒していたように思う。ゆったりとした時間の流れる明るいカフェでの会話は、まさしくラテン系の都市体験そのものだったと、読みながら懐かしく思い起こした。
氏のことなので、この論考はまだほんの導入にすぎないだろう(と、適度なプレッシャーを与えつつ)が、多忙な日々のなかでユルバニスムの総体をまとめられるのは大変な作業であっただろうと敬服する。ささやかながらオマージュとして、ユルバニスム論争(でなければ、ポスト都市計画論争)が起こることを期待しつつ、多少の所感を述べてみたい。
前置きとして、僕のスタンスを示しておけば、ランドスケープ・アーキテクチュアなるユルバニスムにも匹敵するような把握しがたいものを専門にしてきているつもりである。その領域は「建築」や「都市計画」に比べれば、(少なくとも日本においては)多少なりとも多様で学際的なものであると言えるかもしれない。「建築」に哲学や社会学、地理学などの領域も含まれているとしても、「ランドスケープ」にはそれに加えて、植生などの生態系の分野も包括されているし、それでいて純粋にエコロジカルな領域だけを対象としているわけでももちろんない。
僕個人の興味は、その中でもアーバン・ランドスケープ・アーキテクチュアにあり、農業や林業を対象から外すことだけでも随分と領域の幅は限定されるはずである。しかしフィールドを都市に絞ったとしても、そこでの事物の総体として「ランドスケープ」を扱うには、多様な視点が不可欠である。単に与えられた敷地内の屋外空間のデザインをこなすのが、ランドスケープ・アーキテクトの本来の職能ではない(もちろん、このデザインは重要な領域ですが)。この面で、ランドスケープ・アーキテクト(フランス語ではペイサジストだと思いますが、この違いもはっきりさせてみたい)は、ユルバニストと近い概念であるようにも思われる。もっともこれは、僕の知識が散逸で浅いものであると言っているにすぎないのだが。。。
このような視座から、松田くんの論考を読むと大いに頷ける多くの点と、腑に落ちないいくつかの点が思いあたる。雑多な所感ではあるが、順不同で列挙してみたい。(全くまとまりのない文章になっていることを、はじめにお詫びしておきます。レビューは早いことが重要だ!と言うことでご容赦下さい。)
①「ユルバニスムとは何か」は不毛な問いではないか
まず論考の中の「ユルバニスムとは」を追いかけてみる。ユルバニスムとは、
「ル・コルビュジェの著作」、
「フランスではごく一般的な言葉」、
「居住、特に都市居住を、人類の要求に適合させる方法の体系的な研究」、
「19世紀半ばのバルセロナで誕生」、
「セルダが生み出した都市空間を組織する学問」、
「建設と設備のネットワークとを空間に投資するという過程(計画化されたものもそうでないものも)に割り当てられるはずのもの」、
「その意味は使用者によってさまざまに変化し、例えばランドスケープといった都市に関連したさまざまな概念を曖昧に包括」、
「ドイツ語のStadtebauに対応」、
「都市を「計画」するための概念ではない。あるいは都市を「建設」したり「経営」するための技術でもない。むしろ都市という領域の外側に立って都市を操作対象として扱うことそのものを否定しているもの」、
「都市計画を含むが、もう少し広範囲な領域を示す」、
「計画、法律、地理、社会、美学、哲学、理論、実践といったような都市に関わるさまざまな領域を飲み込んだその総体を示す言葉」、
「都市に対するより包括的な概念であり、目に見えるような「計画」を氷山の一角として包含する概念」、
「もう一度都市について本格的に考えていくための糸口となるもの」
となっている。
僕の理解では、学問領域の一つであるとの認識が優位に立つ。註には、中国ではユルバニスムに「都市学」の訳があてられていると添えられているが、これが感覚としては一番しっくりとくる。
ユルバニスムは法律の名前ではない(まったく話は脱線するが、フランスの都市計画法であるLoi CornudetとLe Corbusierは似てはいないだろうか。コルビュジェは自らが都市法だ!と名乗ったのでは?とは思い込みが強すぎるだろうか…)し、計画や建設だけの概念だけでもなく、都市を理解するためのアプローチという類のものなのだろと思われる。確かに僕も、日本において都市に対するそのような視点が欠如していると思う。しかし、そのような総合的な視点とは「何なのか」というのが、どうも釈然としない。
原広司の流れを汲む松田くんには、ぜひ「ユルバニスムとは何か」ではなく、「ユルバニスムに何が可能か」を語ってもらいたい。特に、「今、日本において、ユルバニスムに何が可能か」が問われなければならないのではないか。これまでの(例えばランドスケープの)視点からは見えてこなかった都市の様相が、ユルバニスムを通じるとどのように浮かび上がるのか?ぜひいろいろと議論をしてみたいところである。(念のために断っておけば、その土壌としてユルバニスムの起源が明確に示されたことには、もちろん大変意義深いことだと思います。)
②丹下の目指した「都市工学」と「ユルバニスム」の関係や如何
①のように、ユルバニスムが学問分野の一つと仮定すると、丹下健三が設立した「都市工学」という都市に対するあたらしい学問領域との関係性が興味の対象となるのは、ごく自然なことのように思える。丹下の目指した「都市工学」はコルビュジェ経由の「ユルバニスム」の日本版だったとして、本質的な意味でのユルバニスムとの差異はどこにあるのだろうか?これを明らかにしておかない限り、日本にユルバニスムの考え方が導入されていないとは言えないのではないだろうか。
設立当事、都市工学をやっていた人たちが、都市の「建設」のための理論構築をやろうとしていたことは間違いないだろう。しかし、本当に「都市工学」とはそのようなものなのだろうか。最近の都市工学の研究には多少とも、建設ではない都市のあり様を求める内容が伺える。「都市工学」の再考もユルバニスム同様、あらたまって都市を考える糸口となり得るだろうか。
③アーバ「ニズム」とユルバ「ニスム」
アーバニズムとユルバニスムの関係についても大変に興味深い視点が示されている。ユルバニスムが釈然としないのと同様に、アーバニズムも自分の中ではほとんど説明が見つからない概念である。単なる語彙の問題として捉えて良いかどうかは疑問であるが、試みとして、以下ような「活用」を考えるのはいかがだろうか。
アーバン/アーバニティ/アーバニゼーション/アーバニズム
モダン/モダニティ/モダニゼーション/モダニズム
「アーバニズム」や「モダニズム」はイズム(=主義)の問題と解釈して良いだろう。ユルバニスムの「ニスム」も「イズム」と理解してよいものなのであろうか?とすれば、ユルバニスムは、都市でも都市性でも都市化でもなく、都市主義(都市に関する思考や概念とでも言うべきものであろうか)を問うものと理解できるようにも思う。
④都市計画の前提となる「都市」の不在/ユルバニストと政治家・市民/フラットに都市を見る
アーバニズムへの影響を考えるまでもなく、ユルバニスムの「ユルバ」=「都市」についての理解がない限り、ユルバニスムの理解も不可であると考えられる。
日本の「都市計画」においては、あきらかに「都市」を思考する作業が欠如している。松田くんの指摘では、この前提となる都市を考えることそのものにユルバニスムが一躍を担うはずであるということになろう。しかし、それは「計画のための都市」であってはいけない。視座は「計画」や「経営」に固定されたものではなく、フラットに都市を捉え、何が必要かを考えることがユルバニストには求められるようだ。
本来このような領域は「政治」なのではないかと思えてくるがいかがだろうか。さらにひいてみれば、都市の生活者たる「市民」の思考そのものであるようにも思える。ユルバニストとは市民の代表者たる都市の専門家ということになろうか。
それとも「都市」をフラットに見るということは、「都市を操作対象として扱うことそのものを否定」し、都市を市民生活の集合体として捉えるのではなく、「都市」そのものを個性のある、いわば一つの生命体として捉え、その生成を眺める作業になるのだろうか。はたしてその場合には、その観察の目的は何なのか?人々の生活の喜び以外の目的をどのように都市に設定すれば良いのだろう。。。いかにメタな視点から眺めたとしてもそこに求めるべき都市のブレークスルーはあるのだろうか。
⑤日本の「都市計画」を(しっかりと)嘆く ―そのためのレクイエム
今から90年近くも前の1919年につくられた都市計画法の枠組みが、未だに日本の都市をコントロールしている(あるいはコントロールできていない)という忌々しき事態の打破については、大いに賛同するところである。
ユルバニスムは「都市経営の技術ではない」とのことだが、少なくとも日本の都市計画に「経営」なり「運営」の視点がないのは事実である。計量計画研究所理事長の黒川先生は、ある公演で、「国交省にニュータウン再生計画を相談されたので、まだ建設するつもりか!と怒った」と仰っていた。「ニュータウンに必要なのは、再生のための建設計画ではなく、運営の方法だ」と言う。「計画」という言葉に「運営」の概念が含まれるかどうかは別として、少なくとも日本の「都市計画」が、「建設のための計画」であったことに否定の余地はない。
特に日本の「都市計画」は「道路建設計画」であったとも言えるほど、旧都市計画法の成立以前にさかのぼる近代都市建設のそのスタート時から、江戸の都市構造を強引に近代化させるために市区改正や不燃化事業、区画整理や戦災復興を通して、日本の都市計画は道路の建設に力を注いできた。その一方で、道路によってつながれる目的空間であるはずの街区(敷地)については、私有財産権を最大限に優先し、ほとんどコントロールがなされていない。(このような潮流の世界的発端はフランス革命における市民権・財産権の獲得にあると見ることもできる。「ユルバニスム」の議論においては、なんとも奥深そうな因果関係である。)このような「都市計画」で総体としての都市がどのような影響を受けたのかは正当な評価を下すべきである。
また、五十嵐敬喜氏によれば、日本の都市計画は、「線引き」と「色塗り」と「数値」の3種が全てであり、しかもそのどれもが、かなりルーズな規制であると言う。さらに、ゆるい規制はあるものの、一方で目指すべき具体的な都市像が示されていないのも大きな問題点である。加えて、これらの都市計画は1968年の新都市計画法までは、国家高権により国がその全てを決定してきた。新都市計画法の制定後も市町村は都道府県知事の承認を、知事は国(大臣)の認可を得なければいけない仕組みとなっており、事実上の国家高権は保持されている。近年、長期未着手の都市計画が問題となるケースが見られるが、例えば、東京近郊の自治体では、東京オリンピックの準備におけるドタバタで国が節足に決定した都市決定を未だに実行できないまま「計画」として抱えていると言うのが実情であり、他地域の自治体でもお上の「計画」を実行するという意識は根強く残っている。これに対してフランスでは日本の都市計画法と同年の1919年のコルニュデ法制定時から「人口一万人以上の都市に計画の策定を義務付ける」方針が採られており、計画の決定がどのような体制で行われてきたのかは注目に値する。
⑥ユルバニスム」≒「アーバン・ランドスケープ・アーキテクチュア」+「都市マネジメント」
松田くんの最初の問題提起は、「計画ではない別の都市の操作概念はいかに可能か」というものである。これは、同時代的な都市に対する感性として痛いほど身に沁みる。今、僕たちの目の前に広がっているのは、バブル崩壊後の焼け野原ではない。むしろ、十分に計画され建設されつくされた都市の風景をみる眼差しのほうが素直であろう。
スタンスは大きく二つに揺れている。ユルバニスムの説明にあるように、「都市を操作対象として扱うことそのものを否定」するのか、「別の操作」方法を模索するのか。僕は明らかに後者を選択したい。ただし、「操作」の範囲は限定的なものであると考えている。都市の(例えば東京23区の)全容は、とてもいまさら操作可能なものではないだろう。しかし、逆にそこに住む(専門家ではない)すべての市民に、自分の身の回りの生活環境をある程度操作可能な術が用意されているのではないかと思う。われわれ専門家にできることは、そのような操作をディレクションしていくことで、少しでも生活環境の積み重ねとしての都市の質を向上させていくことではないだろうか。
はじめに示した僕のスタンスから見れば、アーバン・ランドスケープ・アーキテクチュアはユルバニスムに近しい多彩な領域を既に包含している。都市風景は人々の生活の結果が視覚化された総体である。その意味ではまさに都市をフラットに眺めたものであると言える。ここにマネジメントの視点を持ち込む(古典的な技術としての造園には、植物の成長管理などのマネジメントの視点は多分に含まれていた。しかし、近代以降のランドスケープ・アーキテクチュアには人々の生活と風景との関係を建設後の長い時間スパンの中で考える視点は抜けていたのではないか)ことで、松田くんの問題提起である、「都市の新しい操作方法」になり得る可能性ないだろうか。。。
風景を一人の専門家が一から創り出す時代ではない。既にそこにある風景をいかに人々の生活との関わりを分かりやすく示すことができるかが問われているように思う。
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おでん屋のおでんをすべて平らげるという事態について
http://rystail.exblog.jp/4410791/
2006-12-16T21:05:00+09:00
2006-12-21T13:14:29+09:00
2006-12-19T21:51:12+09:00
rystail
landscape
正直なところ、こんなにも居るとは全く知らなかった。
いつの間にこんなにも大勢の後輩が東京に居るのだ!というか、いつの間にこんなにも大勢の知らない後輩ができてしまっているのだ!!
ついこの間、研究室を出たばかりのつもりなのに。
当たり前のことだけれど、2年もすると研究室は知らない人たちばかりになっている。
しかし、それにもまして驚いたのは、そんな初対面のメンバーにも関わらず、楽しく和やかな雰囲気が瞬時にして出来上がるということ。
これは、先生の否、先生を含む皆のキャラクターの良さだと感動する。
時間は異なっていても皆同じ「風景」を共有している。
暗い廊下/開けられたままのドア/少し高いテープル/汗ばむ手/煙たそうな(これは最近改善されたらしい)観葉植物・・・
東京にしばらく居るせいか、どこにいても同じかもしれないけれど、こういう連帯感っていうのは、まず得られない。
お店の席も、お世辞にも広いとは言えないカウンターに、文字通りひざを寄せあって座るしかなく、誰かがトイレに立つたびに席替えが行われるというシステムが和やかな雰囲気を大いに助長するというすばらしい演出だ。
皆で先生を最終便ギリギリの時間まで引張って、どうにかタクシーへ押し込んだ後も、時間はあっという間に過ぎてしまい、お店史上最高のお支払いという顛末。
渋谷の夜は、東京と言う場所性を超えていた。
この雰囲気をそのまま都市に延長しよう。
こういう経験をできるのが僕らの目指すべき都市だ!という確信。
のんべえ横丁で新しい風景の可能性を見た気がする。
楽しい時間を共有して頂いた旧友とはじめてお会いした同胞の皆さまに感謝。
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Axis of Evil for Landscape
http://rystail.exblog.jp/4410373/
2006-12-09T19:47:00+09:00
2006-12-20T12:36:46+09:00
2006-12-19T20:55:30+09:00
rystail
LANDSCAPE
自分の庭を好きにデザインするのは、ランドスケープアーキテクトか。公開の私庭を100も1000もつくらない限りは社会への影響は少ない。やはり「風景」をつくるということの意義が問われるのは、公共空間においてと考える方がよさそうである。
戦前における「公園」の仕事は、少なくとも今のような与えられた敷地の中をデザインするということはなかった。日比谷公園は、市区改正委員会の上申をうけた山縣有朋が決定したものに他ならないが、それ以降の計画・設計・施工の指揮は、本多静六という一人の人物によってなされている。
東京市における井下清の役割も計画から施工までを一貫して担うものである。
山縣や震災復興の後藤新平など、大まかな計画の方針は「政治」のフィールドで決定されていたと言わざるをえない。しかし、その場の風景を誰がデザインしたかと言えば、比較的容易に一人の人物の名前が挙げられる。
では、この状況はいつ変わってしまったのか。
戦後も造園の仕事も官庁の技術者が計画から設計・施工に至るまでを行うのが普通であった。日本住宅公団における造園の業務も、当初は公団職員自らが行っていた。しかし、事業量の増加や団地の大規模化に伴って、より効率的な設計システムが求められるようになる。昭和35年、はじめて造園設計の業務が外部のコンサルタントへ委託される。これと同時にまだ不慣れなコンサルタントを支え、大量の設計を効率的かつ合理的に進めるためのツールとして、「造園施設標準図集」が取りまとめられる。このような方針は、いずれも造園設計の本来の目的である空間構成とその質の向上に取り組むための時間を捻出するために取られた手段であった。しかし、その意図とは裏腹に、それまで一つの職能として行われていた造園の計画・設計・施工はそれぞれ独立し、空間の画一化や風景総体のあり方を問う機能が薄らいだことは否めない。
この領域の専門・分化により、造園コンサルタントという職業領域が確立された。その系譜の流れの末に今のランドスケープデザイナーと呼ばれる人々がいる。
「手段」と「目的」を取り違えたのは、いつの時代か!誰か!]]>
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