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2006年 05月 25日
植芳造園の井上さんのお話を聞く機会を得た。
井上さんは、京都の名門造園業「植芳」の20代目という、まさに現代に残る数少ない筋金入りの作庭家だ。 僕は「造園」の教育を受けたし、学生時代には日本庭園もあちこち見て廻った。 歴史的な庭には、確かにその場の厳格な雰囲気があるし、「自然」の象徴を理解できることもある。その良さが理解できないわけではない。 しかし、ここ最近は、「庭園」としてつくられた風景の押付けがましさや擬似的なつくり込みや出来上がってからの時間的な推移の中での懐疑的な変化などがどうも気にかかっていた。 さらに、ある個人の作家性を前面に押し出して、全てを個人が背負って勝負する、「顔」のみえる風景のづくりにもいささか、違和感を抱いていた。 風景とはもっと、自由に選択され、解釈され、使われ、愛着がもたれてこそ、その人の心に響くのであり、一義的な視覚的驚異を押し付けて感動を呼ぶ風景は、この先立ち行かないのではないか。 もはや人々は「専門家」に教えられることなしに、自由に風景を獲得できるだけの術を身につけている。自由に選び、自由に理解し、自由に利用し、自由に愛することができる。必要な機能を美しく設える専門家は必要であっても、風景の見方を提示する専門家は求められていない。むしろそこには選択と行動の自由の幅が多く残されていることの方が大切ではないかと思うに至っていた。 だがしかしである。作家性を前面に出し、風景の見方を明確に提示し、伝統的な日本庭園における自然を象徴的に捉える手法を存分に発揮した、井上さんの作品としての庭園は、見事に美しいと言わざるを得ないのである。そのプロフェッションにはただただ、脱帽である。専門家が人々に教えられる事など山ほど残されている。その専門家の知見の如何によっては。そう思い知らされた気がした。 井上さんのお話は、部屋に座って庭を見たときに幹の重なりがどう見えるかとか、山道の灯篭の脇にヤブコウジを植えることで山の自然の中に人の営みを感じることができるとか、岩の組み方や水の集まり方をどう演出すれば面白いかとか、まさに恣意的に風景をどう仕立てるかといった取り組みの極意ばかりである。 このような手法は、閉じられた庭園空間の中だけの、暗黙の共有化されたルール下においてのみ成立可能なものかも知れない。同じ手法で都市空間をつくり込むことには無理も多々あるであろう。しかし、このようなプロフェッションは必ず活かされる場面があるはずである。 何よりも必要性を感じるのは、風景をつくることに、計画・設計・施行・管理の分け隔てはないということである。ランドスケープ・アーキテクチャが建築と違う側面を持つとすれば、植物を扱うということ以上に、それはセクショナリズムになり得ない性質を持つということではないだろうか。石組みをつくるということは、やはり図面での表現には限界がある。木を植えるということは、その成長を目論んで、しかもその管理を適切に行うことではじめて効果を発揮する。誰にでもつくれる再現性もなければ、だれにでも管理できる思考があるわけでもない。 現に京都の迎賓館においても、当初発注の設計図書は全くの予算要求に使われただけであり、実際には現場での施行ありきの作庭だというお話も聞いた。 また、公共事業への風当たりが厳しくなるなか、最近では宮内庁の庭園管理ですら競争入札によると聞く。これにはさらに、同じ庭園を代々受け継いできた職人の伝統技術が急速に失われるという問題も付加されている。 井上さんの数多くの作品を見せて頂いた中でも特に、梅小路公園の沢野と芝の起伏による展示庭園が印象的であった。全くもって人工的な風景であるが、どこかに自然を感じる、いや実は自然など感じていないのかもしれない。心地よい風景であるということが、勝手に自然をイメージするというさ恣意的なコントロールを受けているようにも思う。心地よいコントロールならぜひともプロに導いて欲しいと思うのは、マゾヒスティックであろうか。 久しぶりに、ほんものにガツンとやられた。そんな感じがした。
by rystail
| 2006-05-25 20:34
| LANDSCAPE
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