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2006年 01月 17日
さらにさかのぼって、こんなこともありました。
2004/10/26 『つくるときにおもいめぐらすもの』 このイベントはABCの復活イベントの一環として行われた。 僕がはじめて「青木淳」を知ったのは、1999年11月号の建築文化誌上だが、その頃はちょうど、僕も、そしてたぶん同時代的にも、ランドスケープの計画やデザイン論が行き詰っていた時期だったと思う。本来、そこに既に在るべきものとしてのランドスケープを「つくる」とはどういうことなのか?青木さんの作品集に添えられた文章(いや、一連の「物語」のようなものだった)は、その作品以上に、僕らの心を捉えた。建築の世界ではもう既に有名だったのかもしれない彼のその特集号は、それまで、写真をパラパラ眺めるだけだった冊子を、はじめて建築「文化」なのだと意識させた。その瞬間は、まさにその時代の、その場の空気の質が変化したように感じた。青木さん自身がレム・コールハースの講演を聴いて、そう感じたように、僕も青木さんの文章を読んで、つくることとはこんなに楽しく、素敵なことなんだと改めて思ったものである。そんな彼の話を聞くのは、これが3回目。今回は水戸芸術館の森さんのコーディネートも素晴らしく、今までで一番面白い内容だったと思う。 前置きが長くなったが、話の内容へ。まずは金沢の美術館の話からはじまった。 ・ 海の上の島のようにホワイトキューブが浮いているのかなあと思っていたら、ホワイトキューブとそれを取巻く隙間が連続してつながっている感じがした。普通は閉じた感じのするホワイトキューブが開放感のある箱になっていた。 ・ 美術品を搬入するための扉に、小さな人の出入りのための扉をつけて演出をしている。 ・ 20世紀の建築はつながれるものとつなぐものをどうつくるかということをやってきた=動線・廊下をどうつくるかが課題であった。音楽ホールのホワイエはこの動線空間が巨大化したものでこれが海の例え。 ・ 妹島さんは構成よりもプロポーションのスタディに非常に時間をかける。 昔、青木さんと妹島さんが付き合っていた、なんて話を聞いたことがあるけれど、本当なのかなあ?とか思いつつ。つづいて青森の美術館の話に。 ・ 青森の根拠になっている経験は、石切り場でのイベントやクリュニー美術館=つくりたくてつくったのではない空間。 『思い入れのない空間をつくりたいと言いながら、でも思い入れたっぷりの空間をつくるっておられますよね?』という森さんの質問は最高。結局のところ、恣意性を消して「つくる」なんてことはできないのではないか。この問いは、青木さんをはじめて知った時から、僕の中でずっと変わらない疑問。その質問に対する青木さんの答えはこうだった。 ・ 僕が建築をはじめた頃はポストモダンの時代だった。ポストモダンでは、建築はひとつの記号(意味を伝えるもの)と考えられていた。極言すれば、建築はメディアであった。世の中はそんなポストモダンの考え方に大きく流れていた。でも、それはなにか違うんじゃないかと思っていた。建築とはやっぱりモノなのではないかと。 ・ どこの国に行ってもクレーンがある。でも「かたち」は少しずつ違う。どこの国でクレーンをつくった人に聞いても単なる機能からできている「かたち」だと言うと思う。でも、どこかで本当は、そこには美意識が加わっているのだと思う。そうでなければ「かたち」の違いなど生まれないはず。 ・ そんな美意識のような、その空間が存在できる別の論理を考えたいと思っている。 ・ 自分とは切れたところからスタートする。 ・ ある、1つのスケッチで大きい意味での設計はほぼ終わっていることがある。例えば青森の美術館のスケッチ。(原っぱと遊園地の表紙)何をつくって、何をつくらないかはすべてこのスケッチの論理で決まってしまう。手すりのかたちでもそう。このプランはホワイトキューブと土の反転で出来ている。だとすれば、このスケッチは断面だけれど、平面は市松模様がいい、ということになる。そうすればホワイトキューブと土が交互に現れる。そういうことが決まって行く。これをオーバードライブさせるだけ。 ここでも、森さんの『そのオーバードライブというのはどういう意味ですか』という質問にしびれた。僕もそれを聞いてみたい!と思った。ことごとく的確な質問と相槌。美術のセンスというよりも、状況判断や洞察力といった感性が今の美術の世界(のみでなくおそらくは、一般の社会においても)では、とても重要なのだろと思う。 ・ 何かをつくるときは、すべてに筋が通ってなければいけないと思う。1つの理由ですべて説明できるべきである。それが建築家というものだと思う。 ・ そうやって1つのルールを決めて色々試して行った時に、今までと違う美意識が発見された時がうれしい。自分にはない美意識がそのルールによって生みだされた時、うまくオーバードライブできていると思う。 ・ この「ルール」は作品ごとに設定する。ルールは外的な条件(敷地だったり施主だったり)との折合いのポイントで決まる。 「決定ルール、あるいはそのオーバードライブ」という論文を読んだ時もかなりの衝撃だったことを思い出す。まさに理想の設計論だと歓喜した。でも「決定ルール」は良くわかるけど、「そのオーバードライブ」って?といつも思っていた。定規で引いた線よりも、何度も手で書いた線の方が美しいと思うこと。サッカーというルールの中で、手を使うことでラグビーが生まれたということ。そんなことが思い浮かんでしまう。結局は、ルールの自走ではなく、ルールに従った恣意的な選択を迫られるのではないか。さらにそこにこそ生身の人間が関与することの意義があるのではないのかと。(青木さんの作品で言うと雪のまちみらい館のメタボールを使った設計ってあんまり良くないんじゃないかと思う。ごく感覚的な問題だけれども。それよりも、「構成と表現の分離」と自ら語る潟博物館の方がよっぽど魅力的に映る。)ここでの「オーバードライブ」に対する青木さんの説明もよくわかるし、本当にそうだったらどんなに素晴らしいだろうなとは思うけれど、やっぱり僕はまだ、言葉や論理では説明しきれないよさ(美しさや素晴らしさや)っていうものがあるような気がしてならない。それに触れた時に、人は感動するのではないか。それは必ず、ある原理・法則によって説明の出来るものだけではないのではないか。ルールの設定の仕方の問題ではなく、ルールそのものの存在の有無の問題があるように思える。これは、僕の知識と経験の無さから来る疑問だろうか。また、仮にそれが正しいとしても、「つくる」ことにつながらないなら、それは無視すべき感受性なのだろうか。 疑問は尽きぬまま、つづいてリノベーションの話へ。マルタンマルジェラのスライドは森さんの言うとおり、大変分かりやすい青木さんの言う「リノベーション」の事例だと思った。 ・ マルタンマルジェラの服は、服のつくり方としてはごく当たり前。襟があって、袖がくっ付いていて、穴が開いている。ただ、その穴のあけ方が違ったり、大きさが巨大だったりすることで、これまでにないものになっている。服という構成は変えていない。その中でなにが出来るか。これをリノベーションと言っている。このような感覚は「O」をやった後くらいから自覚している。 独立のきっかけはレム・コールハース!前にもどこかで聞いたような気がするが、コールハースはやっぱり偉大。いろんな所で、いろんな人に影響を与えているのに改めて関心した。 ・ 水戸でレム・コールハースのプライベート(といっても結局100人くらいが聞いたと思うが)レクチャーを聞いて、磯崎事務所を辞めようと思った。学生の時に感じていた建築の楽しさを思い出した。何かを思いついて、それを突き詰めるということ。これが楽しくて、建築をやってたんだなあと思った。 (まとめとしての)形式と自由ということ。 ・ ある時これではゲームをやっているだけだと思った。数学にはまるとか、子供がケームにはまるとかと変わらない。「O」をやった後くらいからゲームでは空しいと感じ出した。 ・ 世の中に既にベースのあるものから「変える」という方法へ。何かを変えて面白くするということ。ぱっと見た目には分からないけれど、考えてみると納得が行くというもの。僕は、建築は世の中を変えうると思っている。世の中の違う様相を見せたい。 この「リノベーション」や「形式」というのは、「決定ルール」よりも、大変なじみやすい。青木さん自身の「ゲームでは空しいと感じ出した」という話で、これまでの疑問がすっきりした感じがした。このルール→形式という変化を考えると、形式とはそのやり方を規定するもの(ゲームのルールのようなもの)ではなく、生活する上でのマナーといった、より共通認識的なレベルのものであるように思う。ルールが気にならない「自律した決定ルール」の設定ということでなしに、マナーを守って、その上でどう振る舞うかと考えることで、より自由度が保たれるのではないかと思う。その自由度の中での思考の冒険こそが、「世の中の様相」を変え得る原動力となるのではないだろうか。マナーを守った自由の身の青木さんの今後がますます楽しみである。 最後に、会場からのいくつかの質問に青木さんが答えていた。残念ながら僕の書いた『最近、いちばん感動した出来事を教えて下さい』には「むつかしいなあ」とつぶやいていただけだった。「感動する」とは、まさに今までに見たことのあるものとは、違う様相を見る(感じる)ということなのだと思う。僕も「ぱっと見た目には分からないけれど、考えてみると納得が行くというもの」に心惹かれる。普段の生活における「感動」がものをつくるということにもきっと密接に関係しているのだと思う。青木淳が日常の生活をどのような様相として捉えているのかは非常に興味のあるところである。 講演を聞き終って、なんだかやる気が出た。はじめて「青木淳」を知ったときのように、つくることの楽しさを教えてもらった気がした。「つくる」ということに対して誠実に取り組むとはこういうことなんだろうなと感じた。 僕もそうありたいと思う。
by rystail
| 2006-01-17 20:37
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