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2005年 07月 31日
大江健三郎 著 「新しい文学のために」 より
風景を見るという行為は、おしなべて受け身のものと感じられるかも知れない。しかし自分の経験をよく考えてみるならば、それにはふたつの側面があることに気がつくだろう。車窓を流れてゆく風景に眼を投げて放心しているような時でも、新しく心をとらえる山や川、樹木があらわれると、つい躰を乗り出すようにして、風景との積極的な交信をはじめるではないか。それまでずっと受け身でいたのに、その瞬間から僕らの心に起こりはじめることは能動的なものだし、それは自分の言葉として表現することもできる。意識的に受けとめる、把握するということは、じつは言葉でとらえているということなのである。 (略) 僕らはいったん興味をそそられて風景を見はじめる時、その全体、または一部分を、あるまとまりでとらえている。バラバラの家・樹・野原を統合し、ひとつの全体として把握しようとしている。細部に眼をとめるにしても、それはひとつのかたちをそなえた全体の細部なのだ。僕らは思わず知らず、風景にあるかたちを、あるスタイルすらあたえて把握しているのである。 風景を捉えるということは、その「全体を把握し」、「かたち」や「スタイル」をあたえるということである。『新しい風景』のためには、新しい全体の理解や新しいかたち・スタイルが必要となる。 風景の部分を統合して一つの秩序を見出すのがランドスケープ・アーキテクチャであるなら、現在の世界の全体像をつかむことがその目標の一つとなろう。人口減少や景気の低迷など、何かしら閉塞感の漂う現在の日本において、風景をつくっている根源的な全体像とはなんなのか。これは、風景の公共性ということにつながるかもしれない。その見取り図を導いてみたい。 『名づけ』はその表徴と言えるのではないだろうか。風景のシニフェとシニフィアンの発見には、かたちやスタイルを言語化することが手がかりとなる。 菊竹清訓の「か・かた・かたち」の方法論をとれば、風景の新しい「かたち」、新しい「かた」(スタイル)から、時代の根底にある本質論「か」へとたどる認知のプロセス(菊竹さんは「かたち・たち・ち」とも言っている)によって新しい風景が見出せるのではないだろうか。新しい「かたち」(形態)も「かた」(技術)も溢れている現在、それらを言語化(把握)し、「かくあるべきもの」としての現在の「か」(構想)を示すことが、新しい風景を産むだろう。
by rystail
| 2005-07-31 22:02
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