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2005年 07月 06日
今月号の都市計画学会誌「都市計画255号」が面白い。
学生時代から、なんとなく退会できずに、ずるずると毎月送られてくる学会誌を眺めているが、たいていは、退会者リストに知人が載っていないかをチェックし、そろそろ俺も潮時かな、などと思いつつ斜め読みする程度である。 しかし、今号は違う。 『特集:密度論再考』 この「再考」ものが僕は大好きである。そもそも、「再考」に値する話題だけに「再考」されるのであり、だから内容が興味深いのは、ある種必然である。 密度論と言えば、まずは人口密度だろう。 特集の巻頭論文で戸沼先生は、人口の問題を「人口動度」として取り上げ、時間当たりの人口変化の視点から密度論を捉えている。(ちょっと気になったので本棚を探すと、あった。「人間尺度論」戸沼幸一著 彰国社 1978 戸沼先生が吉阪隆正のもとで学んだことがよく分かる。まさに和製「モデュロール」とも言うべき名著であるが、本論と関係があるのはむしろ、この後に出された「人口尺度論」である。ううう。また一冊、手に入れなければならない古本が増えてしまった。。。)再考される対象となった、1972年、74年の「密度論」の編集委員であった戸沼先生は、当時の特集を「マシン時代の人口密度」とし、「様々な人工物の隙間に人間が居る」という構図で密度を論じた。 自分の今の生活を少し考えてみれば分かることだが、どこに住居表示があるかというだけでは、生活のフレームを捉えることができないのは明らかである。人口密度の問題は、生活の動態と合わせて考えられるべきだろう。サラリーマンの生活は比率からすれば、圧倒的に仕事場に偏っているわけであり(ともすれば選挙権は仕事場の選挙区で与えられてもいいかもしれない)、駅や電車内といった交通空間が一日で一番自由に過ごせる場所だったりもする。 レム・コールハースの言うように都市の魅力の一つは、そのダイナミックな人の動きにあるだろう。アジアの大都市に見られる、西洋の秩序から考えれば明らかに機能不全を起こしている交通渋滞や過密居住の状態が、なぜか自然と機能しており、それどころか、むしろエネルギッシュな魅力となっているというのは、「密度論」と深いかかわりを持った視点だ。 人口の動態や、過密と高密の違いやその功罪を検証するのはなかなか難しそうである。 また、人口密度を考える時、その対象が大いに問題となる。本書に登場する人口密度の一部を上げてみるだけでも、337.4人/km(2010年・日本)、1000人/ha(1970年代・欧米の開発)、1人/3.9m四方(江戸の町人地)、15~26人/ha(1995年・ニュージーランド)、258人/ha(2000年・マンハッタン)と単位も規模も実に様々である。対象として考える面積、ネットとグロスの違いなどで、人口密度は大きく変わり得る。議論のベースさえも、どうもあやしいものがる。(ちなみに、「誰でも知っているように」とは本書からの抜粋だが、日本のD.I.D.地区は、国勢調査区単位による、40人/haという基準で決められているそうである。知りませんでした。。。しかし、いい加減な。) もう一つ、「密度論」の基準と考えられるのが、「容積率」である。 東京都による戦後から密度計画の論文を読めば、その歴史もよく分かる。しかし、本来、規制要因であるべきはずの容積率が、現在ではどうもボーナスの対象としての緩和措置のツールとして、あまりに手放しに使われている気がしてならない。周辺地域を含んだ交通計画やその場に応じた適正な規模の議論なしに、「公共貢献」の名の下に、いい加減な公開空地の整備程度で、過大に容積率を緩和しすぎてはいないだろうか。民間による都市再生も大切だが、事業採算性から来る容積率に何の意味があるだろうか。まあ、そもそも新都市計画での容積率の指定の仕方から後追い都市計画と呼ばれても仕方のないような、はなはだ疑問が残るものなのであるが。。。 などなど、「密度論」はなかなか奥が深そうである。容易には結論を出せそうにない内容を多分に含んでいるということだけはよく分かった。 「続・密度論再考」を楽しみにしたい。 (日端先生の論文の最後の方に、高山英華先生の「都市計画の方法について」という論文の話が出ている。都市計画技術を「動き」「配置」「密度」に示したものらしい。たいへん興味深い。「高山都市計画学をもう一度振り返り議論してみると、新しい都市計画技術の手かがりが見えてこないだろうか。」とある。「高山英華再考」にも期待したい。)
by rystail
| 2005-07-06 18:50
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