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2006年 06月 22日
気になったので、井上章一の「つくられた桂離宮神話」を読んで、タウトについて再確認。
何も知らずに書いたにしては、そこそこいい線だったかも。 一般的なブルーノ・タウトのイメージと実際に作品を見たギャップについて、彼の不遇な境地から来る精神的な動揺が重なる気がしたが、実際はどだったのであろうか。 彼の日本での行動や実際の言動とはどんなものだったのだろう。 世間の通説ではブルーノ・タウトは桂離宮の美を再発見した者として知られている。 しかし、彼が再発見する前に、桂は「その筋」の人々によって議論の遡上にのぼっていた。タウト以前より、モダニズムの勃興を目指すものらにとってのシンボルだったようである。 そこに、タウトは広告塔として招かれた。彼のモダニストとしてのイメージは、限りなく捏造に近い。実際に、初期の彼の作品はモダニストの手によるものとは到底思えない。むしろ表現主義者と言える。実際に、旧日向邸を見て感じた、タウト・イメージとのギャップは当然と言えるかもしれない。 このようなバックボーンを知れば、強引な空間分割も、細かい装飾も、ちぐはぐな色彩も納得できる。むしろ、その多様性に彼のセンスの真骨頂が感じられる。 彼が桂を評価したのは、機能性や実用性でなく、コルビュジェの空間にない合理では捉えられない空間の良さである。モダニズムを超えるものとしての日本の表現のゆとりと色彩の豊かさである。さらにそれは、空間構成や機能の面からではなく、その視覚的特性において評価されたものである。 当時、モダニズムを広めようようとする者らは、このようなタウトの解釈を巧みな編集の元に世間に投げかけ、日本におけるモダニズムの指導者として異国の著名な建築家を利用した。桂を評価したのも、東照宮を酷評したのも、彼らに用意された器の中でのできごとである。タウトの素直な感想が、取り上げられた様子はない。 そのような、モダニズムの旗手としてのタウトが、日本でのはじめての仕事のために描いたスケッチに、タウト・イメージにすっかり洗脳されている人々は、引いてしまう。日本建築の下手な模倣のような彼のスケッチは、タブーとして葬り去られ、以後、日本で仕事を頼まれることはなくなる。 本人が「建築家の休日」と語るように、建築の仕事にはまったく恵まれていない。執筆活動は旺盛に行われたが、彼の本心から語られたイメージかどうかはあやしい。日本の建築界を先導したと言うよりもむしろ、日本のモダニストによって、タウトの方が教育を受け、それを筆にしたためたようにも思えなくはない。 最終的には、「道化者的な存在」と捉えられ、「寂しい存在」と評されることになる。 タウトの日本滞在は、本当に恵まれたものではなかったようである。
by rystail
| 2006-06-22 21:23
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