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2009年 01月 01日
新年明けましておめでとうございます。昨年の暮れに、長年お世話になっている「シビックプライド研究会」から本が出ました。 政治で経済で文化で、そして何より日常生活で、「シビックプライド」は豊かな都市を、実りある人生を育んでいく原動力です! 今年もよろしくお願いいたします。 2008年 03月 28日
新宿中央公園でお弁当を食べた。桜の周りにはたくさんの人々が集まって、思い思いに過ごしている。気候も過ごしやすくなり、青空の下、満開の花々に囲まれて、気の知れた仲間と食べる昼食は、この上なく豊かな時間だ。桜の花の果敢なさが、このような気分にさらに拍車をかける。
桜にはたくさんの種類があるが、ソメイヨシノが開花するこの2週間、日本はほんとに特別な国になる。後輩が言っていた「桜の開花がニュースになる国って、すてきじゃないですか」というJR東海のキャッチフレーズのとおり、こんなにもすべての人々の関心を集め、幸せな気分をもたらすことのできる文化は、他にはなかなか思い当たらない。 造園の仕事の最大の成果は今もなお「お花見」をプロデュースすることにあるのではないかと思ってしまう。街に桜を植えることで、人々に幸福な生活を贈ることができる。 「お花見」に匹敵する新しいパブリックライフの創造ににチャレンジしていきたい。 毎日のニュースでとりあげられるような、屋外で人々が楽しく過ごせるためのきっかけを提案してみたい。 それはおそらく、シンプルで誰もが共有できる、なんていうことのない口実に過ぎないのだろうと思う。いつだって、晴れた昼下がりに、屋外で過ごすのは気持ちのいいものだ。多くの人々と何かを共有できている感覚も都市生活の魅力の大きなひとつである。 それを許容し助長するような、「文化」としての風景が共有されれば、僕たちの生活により豊かな時間が増えるに違いない。 ![]() 2007年 12月 07日
久しぶりにクリチバの中村さんと再会することができた。相変わらずお元気そうで、日本でのハードな講演スケジュールをこなしておられる真最中。
「都市は人間が幸せな生活を送るためにつくったもののはず。どうして都市問題などが起こりうるのか。都市は解決のための存在だ。」ジャイメ・レルネルさんから受け継いだこのような考え方は、本当に正論で、またこれが、本当に実践されているので、説得力がある。 最初にクリチバを知ったときには、途上国の地方都市だからと思っていたが、今は違う。都市の専門家たちの強い思いがクリチバを今のような都市にしたのである。 目下のお仕事はブラジリアの都市再生とのこと。レルネル事務所の叡智をもってすれば、かのブラジリアも人間都市に生まれ変わることだと確信している。 「市民と一緒に、分かりやすく、シンプルに、すぐに対応することが大切」 都市に関わる人間として尊敬できる大切な大先輩の一人である。 2007年 10月 28日
朝「建物探訪」は、みかんぐみ曽我部さんの自邸。北側斜面の三角旗竿敷地というかなり特殊な立地。それだけに設計のやりがいがあるというか、工夫しがいがあるというのか、かなり素敵なお家です。それは、もちろん。
夜「情熱大陸」は、環境運動家 辻信一。まずは、自分が本当にいいと思うことから、なんでもナマケる。そんな姿勢が100万人のキャンドルナイトにまでつながっていく。 どちらも、自分のスタイルを毎日の生活の中で貫いて、それがプロフェッショナルになっている。果たしてどちらが優れているかという話ではないとは思うが、やっぱり「建物」に閉じこもっていては、その影響度合いが少なそう。100人が通う幼稚園を設計しても、1万人が入る競技場を設計しても、やっぱり100万人で同時に何かを共有するレベルまではなかなか行かないのではないか。 おなじ何かを設計するのなら、もっと都市へ出て、もっとたくさんの人に触れる場所をつくる方が波及効果は大きいはず。そうしたいけどできない、ということではきっとないと思う。曽我部さんがやっているのも辻さんがやっているのもどちらも、その人のスタイルの問題だから。 住宅を超えて、多くの人が共有する街並みや都市を紹介して、「いやいや、いいですねえ~」と渡辺さんがウンチクを述べて、自分もこういう街に住んでみたいなとか、こういう都市をつくるのに参加してみたいなと思えるような番組もあっていいんじゃないでしょうか。もう、みんな住宅は分かって来ているような気がする。 その街が、どういう思いでつくられたとか、どういう工夫があるとか、住んでいる(計画や設計のプロでない)人が誇らしげに、かつやや恥ずかしげに案内するとか、渡辺さんが都市を語るためのボキャブラリーを豊富に持つようになるとかすれば、きっと、アド街や旅番組みたいにはならないと思うけどなあ。 2007年 08月 15日
ベンチが僕を呼んでいる。
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 木陰で一人の時間をそれなりに楽しんでいるようでもあるし、誰かに話しかけて欲しそうでもある。 いずれにしても、ベンチの存在が風景の質感を高めていることに違いはない。ベンチがそこにあることで、自分がそこに座っている風景が思い描かれる。自分がそこに座って、そこからみえるであろう風景が思い浮かばれる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ベンチが風景を呼んでいる。 2007年 08月 10日
今月号のブルータスの特集は“公園で、夏休み。”
一般の雑誌でこういう特集が組まれると、公園関係者としては、うれしいと同時になんだか口惜しい思いにさいなまれる。表紙の写真はまだしも、取り上げられる公園の多くは、建築家やアーティストによるデザインコンシャスなものがほとんど。一般の人々に(雑誌を売るために)公園の良さを分かってもらうための言語があまりにも貧相なのだと思い知らされる。白幡洋三郎の「公園なんてもういらない」(1991年)以降、公園に携わる者が公園の良さを伝達することにあまりにも臆病になってしまって来たのではないだろうか。公園はその名の通り、公共のためのオープンスペースとして、日々の生活に根づき、よく利用され、日常の風景になくてはならない存在になっている。はずである。 そこで、あらたまって公園礼讃。 公園はこんなにも、平凡ですばらしい風景を見せている。 例えば芝生広場。 ![]() ![]() ![]() 10mに及ぶような起伏は丘となり、開放感とはまた違った風景を演出する。空との連続性よりはむしろ、周辺環境との差異が際立つ。自分の立つ地面の意味を再確認できる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() などなど、当たり前かもしれないが、書き出したら芝生広場でも意外と書ける(書くべき)内容はあるように思う。 こんなことって、どこかに書いてあるだろうか。もっと公園を褒めたっていいと思う。 公園礼讃。 他にもまだまだ、思わず座ってみたくなるベンチについてや、樹木の空間の美しさなどなど、取り上げるべき視点はたくさんありそうである。 2007年 07月 29日
南林間の進士先生のお宅にお邪魔する。
もちろん講演会などでお見受けすることはあったが、ゆっくりお話をお伺いするのは、はじめて。 農大の卒業生ばかりの中に混じって、余計な者がお邪魔したにも関わらず、いろいろと興味深いお話をたくさんして頂きました。 いろいろとお伺いするにつけ、すっかり進士節にはまってしまい、これほど「ランドスケープ・アーキテクチャ」に真摯に取組んでいる人は居られないなと陶酔してしまいました。 お休みにも関わらず、ご家族の方々にも美味しい料理とお酒をご馳走になり、大変感謝です。 まあ、当たり前だけど、本当に良くご存知。 物事の思考過程が明快で、それをアウトプットする道筋も上手。 久保先生の話も飛び出したり、めったにお聞きできないような内容の話もたくさんして下さいました。 ソーシャル・プランナーとして、トータル・ランドスケープを捉えるその姿勢からは、改めてこの分野の魅力と可能性を再確認させて頂くことができ、たいへん勇気付けられました。 先人の足跡はかなり偉大ですが、この道を歩み続けようと決意を新たにした日曜の昼下がりでした。 以下、お話の概要メモ。 ・言葉の持つ意味の強度 ・歴史とは社会の構造を捉えること ・ランドスケープの持つ社会性 ・「アメニティ・デザイン」に込められた心 ・体制と反体制の系譜 ・法的根拠の意義 ・造園の科学-技術-芸術の三本柱 ・原論の持つ意味 ・分野を超える態度 2007年 02月 03日
![]() 駒沢公園が完全な広場だとしたら、この鶴牧東公園は完全な丘である。 公園は平坦なスクエアである必要はない。 空へつながる坂道を登り、屋根より高いベンチに腰掛ける。 こんな公園が家の近くにあったら、毎日のように通ってしまう。 人生のシーンが変わるだろう。 パブリックスペースの意味とはそういうものだ。 人生を豊かにする公園が確かに存在する。 ここでも、植田正治が撮れてしまう。 2007年 02月 01日
失敗した。
(といっても、ひどく落込むほどの出来事でもない。) 美術館のコインロッカーに荷物を預けようとしたら、カギの下の返却口に100円が残されたままだった。 “ラッキー” 別に飛び跳ねて喜ぶほど、うれしくはないけれど、なんだか得をした気分になる。 わざわざ財布を取り出すことなく、荷物をロッカーへ入れカギを回す。 ここまでは、まあ、よく(はないかもしれないけれど、たまには)ある話で、別に失敗談ではない。 問題は、荷物を取りにロッカーへ戻ってきてからである。 カギを開けるとコインが戻ってくる。 僕は当たり前のように、(わざわざ財布を取り出し)100円を取る。 ここで、もう一度“ラッキー”と思ったりはしない。 だって、このロッカーはコインが戻ってくるものだということは、はじめから(そこにコインがあったのだから、特によく)分かっている。 そこで、僕は、そのコインをうっかり自分の財布なんかに入れるべきではなかったのだ。 コインをそのままにし、次にそのロッカーを使う人が“ラッキー”と思えるように、そっとその場を立ち去るべきだったのである。 財布に100円が一枚増えようが増えまいが、僕の感じた“ラッキー”の感覚が、後からちびるわけではない。むしろ、見知らぬ誰かが“ラッキー”と思うであろうことを想像しながら、その後を過ごすことの方が、よっぽど心地よいものだっただろう。(そもそもにおいて、僕はまったく損をしているわけではないのであるし。) 幸福の連鎖とはきっとそういうものなのだ。僕は作法をわきまえていなかった。せっかく誰かのつくった(それが単純なうっかりであったとしても)きっかけを僕が堰き止めてしまうべきではなかったのだ。 今さら気づいたことは、でもたぶん、気づかなかったことよりはましだ。 今度はわざと100円を取り忘れてみるのもいい。もしかしたら、こうして意図的に取り忘れられたコインが世界にはかなり存在しているのかもしれない。 どこかで誰かが誰かを幸せにしている。 2007年 01月 28日
「新」国立美術館を訪れた。同時に3つも展示があって、そのうち2つも無料だと言うのがうれしい。その一つは、設計者黒川紀章の作品展で、当日は本人の講演会をやっていた。すごい人だかりで、1歳児を連れた僕は、通りかがっただけなのだが、その時に聞こえてきた彼の話は、おおむねこんな内容だった。
「読み手が多様な受け取り方ができるようなものがいいんです。皆さん、いちばん多様な受け取り方ができない読み物を知っていますか?・・・それは、六法全書です。(会場笑)」 まるで、みかんぐみの曽我部さんなんかが言いそうな、なんとも今風の発言で少し違和感を覚えたが、僕もまさにおっしゃる通りだと思う。もはや黒川さんの若かりし頃のような、スター建築家が一般の人々に建築や生活のあり方を与える時代ではない。 ![]() 「新」国立美術館を上空から見た写真がある。 これが、「新」国立美術館の全てを表している。 そりゃあ、こんなにうねうねしたガラスの壁面も、至極きちんと積み重ねられたいくつもの白い箱も、それらのあいだの地面に突き刺さったでっかいコンクリートの円錐も、日常風景のなかでそうお目にかかれる代物ではない。しかし、そこでの空間体験は箱の中で美術に集中「させられ」て、出てきて休憩「させられ」るという感じである。 確かに大きな白い箱は展示には最適な空間だろうし、ゆっくりくつろぐにはやさしい局面に包まれたアトリウムはすばらしく居心地がいいだろう。でも、そもそも、そういう風に美術を鑑賞するというのが、学校や会議場のようなスタイルで、まったくもって、たいくつではないか。むしろ、展示スペースとフリースペースが逆転していて、アトリウムで美術の展示を見ながらゆっくりくつろげたり、ホワイトキューブのカフェでコーヒーを飲みながら集中できたりする美術館の方が「新」だったんじゃないだろうか。
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